紳士服展イベント企画からのお知らせです。
経理部の松田です。
奈良旅2日目は、世界最古の木造建築と称される法隆寺へ。
法隆寺の創建は607年。その長い歴史は約1400年以上にわたります。
聖徳太子ゆかりのお寺としても知られ、歴史の重みと神秘さがひしひしと伝わってきました。
参道は美しい松並木になっており、歩いているだけで心が静まるような心地よさがあります。
参道を抜けると、壮麗な南大門(国宝)が迎えてくれました。
朝の清々しい空気の中、その荘厳な佇まいに目を奪われながら、いよいよ境内へと足を踏み入れます。
拝観時間は8時からなので、早朝の静寂とともに、歴史の深さを感じながらゆったりと見学を楽しむことができました。
南大門をくぐると、法隆寺の神秘的な雰囲気と荘厳な佇まいに思わず見入ってしまい、
しばらくの間、動けなくなるほどの感動に包まれました。
修学旅行で法隆寺に行ったことも、正直なところあまり記憶に残っていません。
でも、大人になってから改めて訪れると、その歴史の深さや美しさを心から楽しめることに気づきました。
あの頃はただの遠足だったけれど、大人になってからの今、じっくりと見て感じる法隆寺は、
まるで新しい世界へと誘ってくれるようでした。
中央に見えるのが西院、その右側に進むと東院です。
まずは西院の中門(国宝)へ。
中門の左右には、日本最古の仁王像「金剛力士像」が安置されています。
風雨にさらされながらも、約1400年以上もの長い歴史を見守り続けるその姿は、迫力がありますね。
中門に掛かる戸帳は、羽を広げた鳳凰の模様があしらわれていました。
法隆寺にふさわしい格式の高さと荘厳さを感じます。
法隆寺は日本初の世界文化遺産です。
1993年(平成5)に世界文化遺産に登録されました。
創建当初は「斑鳩寺(いかるがでら)」という名称でしたが、後に「法隆寺」と改名されました。
広大な敷地に、国宝や重要文化財がずらりと並び、まさに歴史の宝庫といえる法隆寺。
その壮大さと奥深さから、どこから見れば良いのか迷ってしまうほどです。
とりあえず、西側の出入口である「西大門」から門をくぐり、東へと巡ってみることにしました。
その途中で、凝ったデザインのマンホールが目に留まって撮影。
西大門をくぐって左へ向かうと国宝の西円堂があります。
中央に安置されている薬師如来坐像も国宝です。撮影禁止なので写真はありません。
伝えられるところによると、奈良時代の718年に光明皇后の母、橘夫人の発願により、
行基菩薩によって建立されたとされています。
行基菩薩といえば、東大寺を創建された方でしたよね。
現在の建物は鎌倉時代の1250年に再建されたもので、歴史的な価値が高いです。
西円堂からは、西院伽藍を望むことができます。
西円堂は無料で拝観できました。
次に向かったのは、1231年に建てられた三経院と西室。
国宝に指定されており、建物はつながっています。
三経院は聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の3つの経典を注釈された『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』にちなんで
付けられた仏堂。
西室はかつて僧侶が居住していた僧房です。
さて、それではいよいよ西院伽藍へ突入です!
拝観料は大人1人2000円とちょっとお高め。でも、その価値は十分にありますよ。
だって、西院伽藍の中はもちろん、大宝蔵院や東院伽藍もすべて共通の入場料で見られるんです!
高い分、期待も膨らみます。
そして驚くべきは、金堂と五重塔、中門、回廊がなんと飛鳥時代の建物だということ!
現存する木造建築としては世界最古です! いずれも国宝に指定されています。
その古さゆえに、もう写真を撮る手に力が入る入る!
歴史の重みを感じながらも、素敵な一瞬を確実に写真に収めようと、ついつい気合が入ってしまいました。
法隆寺のシンボル「五重塔」は現存する木造五重塔としては世界最古です。
最初に目を引くのは、その見た目。
屋根が6つあるように見えますが、実は一番下の屋根は「裳階(もこし)」と呼ばれる塔を支える役割を持つ部分なんです。
なので実際の層は5つだけ。
塔の内部には釈迦にまつわる四つの説話を、巧みに塑像で表現した場面が。
歴史と仏教の教えがギュッと詰まった空間になっていました。
五重塔の前には礼拝石があります。金堂の前にも同じく礼拝石がありました。
神聖な感じがしますね。
金堂は一見すると2階建てのように見えますが、実は1階だけの建物。
見た目の印象と、実際の構造の違いもまた面白いポイントです。
金堂内には「釈迦三尊像」(国宝)が安置されていました。
これは聖徳太子の冥福を祈って造られたと伝わるもので、なんと623年に完成した日本最古の仏像であり、
法隆寺の本尊です。
そしてこれらを守護する日本最古の四天王像(国宝)が祀られていて、見どころ満載でした。
また、壁画も見どころのひとつで、歴史を感じることができる貴重な作品でした。
僧侶が学問を研鑽する場所として建てられたのが「大講堂」(国宝)。
堂内には、平安時代に作られた「薬師三尊像」(国宝)と、重文に指定されている四天王像が祀られています。
特に薬師三尊像は、その優美さと荘厳さから多くの拝観者の注目を集めていました。
中門からは優雅に伸びる回廊が続いています。
また、境内に立ち並ぶ松の木も、とても素敵な風景を作り出していました。
長い年月を経て、風情のある枝ぶりと緑の葉が静かに境内を守っているかのようでした。
法隆寺の金堂には、屋根を支える「龍の添え柱」があります。
いかにも神秘的で格好いいですよね。
五重塔に目線を変えてみると、その屋根の見える部分に何か不思議なものが…?
ガイドさんに尋ねてみたところ、「これ、実はお相撲さんなんですよ!」と教えてもらいました。
え?お相撲さん?と思いきや、なんと江戸時代に屋根の強度を補強するために作られたそうです。
しかも、そのお相撲さんは、なんともユーモラスに屋根を支えていらっしゃる!(笑)
古い建築にちょっとした遊び心が見え隠れする、そんな発見でした。
じっくり観察してみると新しい発見があるかもしれませんね。
法隆寺の中でも特に心に残ったのが「聖霊院」(国宝)。本尊は「聖徳太子像」です。
長い歴史の中で、多くの人々が聖徳太子像に願いを託し、祈りを捧げてきたと思うと、
その歴史の深さと敬慕の念が自然と湧き上がってきます。
一目見ようとお参りしてきましたが、その静かで荘厳な雰囲気には圧倒され、思わず胸が熱くなりました。
聖霊院の前にある鏡池の横に、龍の手水所が設置されています。その形が壺のようで珍しいデザイン。
こんなにユーモラスで可愛らしい手水所、他ではなかなか見られませんね。
そして鏡池のほとりには、正岡子規の有名な俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑がありました。
秋の風情を詠んだこの句は、心に深く響きます。
「大宝蔵院」では法隆寺の寺宝を収蔵し、素晴らしい名宝がたくさん公開されています。
特に、飛鳥時代に作られた国宝の「百済観音像」や「玉虫厨子」は、まさに必見の逸品でした。
その他にも見どころ満載の名宝が多く、私も何度もこの名宝たちに見入ってしまいました。
次は東院伽藍へ向かいます。
西院伽藍から東院伽藍へ通じる参道の途中に建つのは「東大門」です。
奈良時代に作られた国宝です。
南大門から見える景色は、両側に続く古びた土塀が風情を醸し出しています。
土塀を見ながら進むうちに、まるで飛鳥時代へと吸い寄せられていくような感覚になりました。
東大門から土塀に沿って北へと伸びる道は、地域の生活道として利用されていて、
町の風景に歴史が溶け込んでいるのが感じられます。
この狭い道から突然、ボトルカーが出てきたときには、思わず驚いてしまいましたが…
東院伽藍の入口に位置する「四脚門」。
四脚門をくぐると、そこには優雅な鳳凰のデザインが施された手水所が迎えてくれます。
共通入場券を提示して、いざ中へ。
「夢殿」は、聖徳太子の供養と信仰のために建てられた東伽藍の中心的な本堂です。
その中には、国宝の救世観音像が安置されています。
また、この場所は、かつて聖徳太子が住まわれたとされる斑鳩宮の跡地に建っています。
こちらは「絵殿」と「舎利殿」
左側の絵殿には江戸時代の聖徳太子の障子絵が収められ、
右側の舎利殿には聖徳太子が2歳の春に合掌した際に現れたと伝わる舎利が安置されているそうです。
どちらも鎌倉時代の建物で、国の重要文化財。
そして、奥に見えるのが国宝「伝法堂」。
伝法堂は聖武天皇の夫人・橘古那可智の住宅を仏堂に改造したものです。
東院鐘楼は、袴腰と呼ばれる様式で建てられた鎌倉時代の建物です。
奈良時代の梵鐘が吊るされています。
珍しい形状に思わず目を奪われます。なかなか見ることのできない貴重な景観ですね。
東院に隣接する中宮寺へ。別途入場料が必要です。
聖徳太子が母・穴穂部間人皇后のために建立したと伝わる尼寺です。
創建当初はここから約500メートル東の旧中宮寺跡にありました。
しかし、戦国時代の火災により寺は焼失し、その後現在の場所に移されてきました。
中宮寺は皇室ゆかりの寺としても知られており、天皇陛下と皇后雅子様がご訪問された際の写真が、
受付横のお土産売り場に飾られていました。
2023年には上皇ご夫妻も訪れていますね。
一般非公開の表御殿は、江戸時代に建てられたものです。
池に囲まれた本堂には、飛鳥時代の貴重な仏像・菩薩半跏像が安置されています。
その穏やかに微笑む表情が印象的で、非常に美しい仏様でした。
後になって知ったのですが、中宮寺の菩薩半跏像は、スフィンクスやモナリザと並び、「世界三大微笑」と
呼ばれているそうです。
そんなこんなで、歴史の宝庫・法隆寺を満喫し、心も体もリフレッシュ!
やっぱり古い建物って、時代を超えた不思議なパワーを感じますね。
1400年の長い歴史が育んだ落ち着いた風情ある空間に佇むと、時を超えた静かな気配に包まれ、心が落ち着きました。
国宝や重要文化財に指定された貴重な建造物の数々は、その歴史的価値と美しさに圧倒されるばかりでした。
次はどんな冒険が待っているのか…?
奈良の旅は、まだまだ続きます!
【法隆寺ショートムービー】
経理部の松田です。
大和郡山城を見学した後、豊臣秀長のお墓がある大納言塚へ向かいました。
お城からは徒歩約10分の距離にあり、住宅街の中の細い路地にひっそりと佇んでいました。
気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所にあったため、ふと寂しい気持ちになってしまいましたが…。
墓所の前には、「お願いの砂箱」があり、名前と願い事を唱えて3回砂を通すと、願い事が叶うそうです。
大和大納言秀長公は、優しくて賢くて、とても立派なお殿様です。
きっと、私のささやかな願いも、心優しいお殿様なら聞いてくださるに違いありません。ありがたいことです。
もしも近くに住んでいたら、毎日でも「お願い、お願い!」ってお願いに通いたいところです。
きっと秀長公も「またお願い事に来たよ…」なんて笑いながら耳を傾けてくれるかもしれませんね。
まあ、そのうち願い事が山積みになりすぎて、「もう勘弁してくれ!」とお叱りを受けるのも悪くないかもしれません(笑)。
それほど、頼りにしたい素敵なお殿様です!
塚の周囲は白壁の土塀に囲まれており、静かに歴史の佇まいを守っています。
門をくぐると五輪塔があり、ここに豊臣秀吉の右腕として活躍した弟・豊臣秀長公が眠っています。
豊臣家の家紋「五三桐」と「箱本」の文字が刻まれています。
秀長は1585年(天正13)、大和・和泉・紀伊の100万石の領地を治め、郡山城主となりました。
本格的な築城に着手するとともに、町方自治の独特な制度である箱本制度を導入。
この制度により城下の商工業を育成し、郡山の繁栄の礎を築きました。
1591年(天正19)1月22日、秀長は郡山城内で亡くなりました。51歳でした。
歴史を振り返るたびに、まず「すごいな」と感じる瞬間があります。
時代を超えて受け継がれる文化や知恵、偉人たちの勇気や努力。そこには感動と敬意が湧いてきます。
しかし一方で、歴史の裏側には戦や争いなど残酷な現実もあり、
なぜ、あれほどまでに戦をする必要があったのかと考えると、心が痛み、複雑な気持ちになります。
そんな歴史の深さと複雑さに思いを馳せながらも、
私は今、毎週楽しみにしている大河ドラマ「豊臣兄弟」に夢中です。
主人公は、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長。
百姓から出発し、下剋上を経て天下統一を成し遂げた彼の人生を描いたものであり、
久しぶりの戦国時代の作品を楽しんでみています。
何と言っても兄弟のコミカルなやりとりが面白くて、
緊張感あふれる歴史の中に、ふっと笑みがこぼれる瞬間が散りばめられています。
時には冗談を交えたり、ちょっとしたからかい合いが見られたりして、家族の温かさを感じさせてくれます。
その中で、豊臣兄弟がどのようにして天下統一を成し遂げていくのか、
展開を見守るのが毎週の楽しみなんです。
このドラマを通じて、豊臣秀吉と弟・秀長の絆の強さや、それぞれの個性が垣間見え、歴史の裏側がより身近に感じられ、
今後の物語にますます引き込まれていきそうです。
これからも大河ドラマ「豊臣兄弟」の兄弟の活躍と、彼らがどのように歴史を動かすのか、
その行く先を楽しみにしたいと思います。
豊臣秀長の足跡をだどる旅は、歴史の一コマを肌で感じることができる貴重な時間でした。
静寂に包まれた大納言塚は、遠い時代に思いを馳せる場所として、心に深く刻まれるひとときとなりました。
次回はまた異なる場所も訪れて、歴史の足跡をたどり続けたいと思います。
経理部の松田です。
昨年末、また奈良を訪れる機会に恵まれました。
昨年の年明けに訪れた際に、改めて奈良の歴史と自然の美しさに魅了され、年末にも再び足を運びました。
今回は、前回訪れていなかったスポットを中心に、奈良の奥深さを満喫してきました。
そのひとつが、大和郡山城です。
今年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の舞台の一つとしても注目されている奈良県郡山市にある歴史的な城跡です。
お城の入口には大和郡山城と追手門についての詳しい歴史案内文が長々と書かれていたので、
興味深く読ませていただきました。
最初に郡山城を築いたのは、戦国時代の名武将・筒井順慶です。
昨年の年明けに奈良を訪れた際、彼の菩提寺である伝香寺にも足を運んできました。
あの時の様子や境内の様子については、私のブログ(古都奈良の世界遺産巡り後編)をご覧いただければと思います。
筒井順慶は織田信長の後援によって大和統一の偉業を成し遂げ、築城に着手しました。
その後、大和・和泉・紀伊100万石の太守として豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が入城し、豊臣政権の畿内統治の拠点として
本格的な築城が行われました。
そのとき追手門もこの場所に築かれたようです。
しかし、関ケ原の戦いで西軍は敗北。徳川家康によって郡山城は取り壊され、建物のすべては伏見城へ移されました。
大阪の陣後に水野勝成が城主となってから復興整備が始まり、以降は松平、本多、柳澤といった譜代大名が城主を務め
再整備が行われましたが、明治維新を迎えて廃城となり、建物はすべて取り払われてしまいました。
こちらが追手門。
昭和58年に市民の寄付などにより追手門、追手向櫓などが秀長築城にふさわしい姿で復元されました。
追手門には、豊臣家の家紋が刻まれ、豊臣家の威光と栄華を感じます。
城の入口にふさわしい、壮麗で堂々とした存在感があります。
こちらは追手向櫓。
現在、郡山城跡は公園として整備され、令和4年に国史跡に指定されました。
古くから桜の名所としても知られ、「日本さくら名所100選」に選ばれています。
追手門をくぐって右へ向かうと、城址会館があります。
この建物は明治40年に興福寺境内に建てられた旧奈良県立図書館です。昭和45年にこの場所に移築されました。
訪れた日は年末の為、休館となっていました。
追手東隅櫓からは近鉄橿原線を走る電車を見ることができます。
極楽橋を渡って本丸へ。
内堀に架かる極楽橋は、発掘調査の結果、何度も建て替えられてきたことが明らかになったそうです。
築城から400年以上が経過し、歴史の重みを感じさせる城跡。
郡山城の石垣には転用石材も多く使われています。
城跡の持つ静謐な雰囲気は、過去の激動の時代を生き抜いた武士たちの息吹が感じられ、心が落ち着きます。
天守台から望む景色は絶景でした。
遠くに広がる大和郡山の街並みや若草山、歴史と文化の薫る薬師寺、そして修復中の興福寺五重塔までも見ることができ、
戦国時代に思いを馳せながら静かな時間を過ごしました。
大和郡山城には天守閣が復興されることはありませんでしたが、私はむしろその殺伐とした風景に惹かれます。
松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」の情景が頭に浮かび、戦の名残と時の流れを静かに物語っているように感じます。
天守閣の華やかさではなく、そこに漂う歴史の重みや哀愁を感じさせる風景に、私は深い魅力を感じています。
本丸には柳澤神社があります。
神社の祭神は江戸幕府5代将軍 徳川綱吉の側用人として活躍し、政治の中枢を担った柳沢吉保です。
甲斐国生まれの柳沢吉保は、後に川越城主を経て甲府城主となりますが、
2代柳沢吉里の時に、柳沢家は幕府より甲府から郡山への転封を命じられて郡山城に入りました。
吉里以後、6代にわたって柳沢家が明治維新まで大和郡山藩主を務めました。
柳沢家の菩提寺である永慶寺にも行ってきました。郡山城から徒歩数分の場所にあります。
永慶寺は柳沢吉保が甲府に建立したお寺であり、長男の柳沢吉里が郡山藩に移封されると、同じく郡山に移転しました。
山門は郡山城の南御門を移築したものです。豊臣秀長時代に建てられたものだそうです。
墓地の中央に柳沢家の墓所がありました。
6代藩主柳沢保申の墓
6代藩主柳沢保申の正室明子の遺髪碑と5代藩主柳沢保興の正室淑姫の墓
柳沢宗家8代当主柳沢保恵の墓
とりあえず写真を撮ってきました。
長い歴史の中で幾度も変わりゆく姿を見せてきた大和郡山城。
城跡を歩きながら、歴史の流れや当時の権力者たちの思惑を想像すると、ますますこの場所の深みを感じました。
経理部の松田です。
昨年末、奈良へ向かう途中に、京都府京田辺市にある一休寺に立ち寄りました。
このお寺は、「とんちの一休さん」でおなじみの一休禅師が晩年を過ごした場所として知られています。
一休さんの本名は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)といい、室町時代の1400年代に活躍されました。
禅の修行とともに多くの詩や俳句も残されています。
総門の前にあった「一休とんちロード」の案内板
一休さんにまつわるとんち話やユーモアあふれるエピソードが紹介されているようです。
総門をくぐると石畳の参道が続きます。
一休和尚筆の碑「諸悪莫作、衆善奉行」 悪いことはするな、よいことをせよの意です。
境内には一休禅師の墓所があります。
現在、墓所は宮内庁により御陵墓として管理されており、墓所には門扉が設けられ、扉には菊花の紋章が刻まれていました。
中に入ることはできないので、紋章の隙間から中を覗いてみました。
歴史の深さと格式の高さを物語っていますね。
庫裡で拝観料を支払って方丈の中へ。
ここで、驚きの事実に出会いました。
なんと、方丈や庫裏、唐門、東司、鐘楼、浴室といった重要な建物が、
1650年に加賀藩の3代目藩主・前田利常の寄進によって再建されたということを!
前田利常は大阪夏の陣で大阪に向かう途中、一休寺を参詣。
そのとき、一休禅師への崇敬の念と寺の荒廃を嘆く気持ちを抱き、寺院の再興に尽力したそうです。
一休寺の歴史に、まさか前田家とのつながりがあったとは…!
まったくの盲点で、正直、かなり驚いています。
これらの歴史の重みを感じさせる貴重な建造物は、いずれも重要文化財に指定されています。
一休禅師御使用輿
一休禅師が80歳の時、大徳寺の47世住職に就任された際も、この輿に乗って京都紫野の大徳寺へ通われたそうです。
一休禅師の長寿と、深い修行への想いが伝わってきそうです。
この発見を通じて、これまで見えていなかった新たなつながりに気づき、自分の視野が少し広がったような気がします。
方丈中央には一休禅師の木像が安置されていました。
襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるものです。
方丈庭園
一休さんの名逸話「屏風の虎退治」ですね。
将軍 足利義満が出した無理難題を一休さんがとんちを
アニメの名シーンが蘇えってきました。
小さな門をくぐると一休寺の本堂があります。
本堂は室町幕府6代将軍 足利義教により建立されました。重要文化財です。
こちらは開山堂。
境内にそびえる一休禅師の像と、少年時代の一休さんの像。
今の世の中のさまざまな汚れや混乱をこの箒で一掃し、もっと明るく、清らかな世界にしたいという願いが
込められているそうです。
「このはし わたるべからず」と書かれた看板を見て、ちょっとドキドキしました。
でも、大丈夫! 私は堂々と橋の真ん中を渡りきりましたよ。
二十世紀の森という場所もあって、さまざまな表情をした石像がありました。
鐘楼
浴室
宝物殿も見てきました。
一休寺で晩年を過ごした一休禅師の遺品などが納められています。
左は重要文化財の一休禅師画像、右は前田利常が一休寺に送った書状です。
これらの史跡や宝物を観ることで、一休禅師と前田家との深い縁を改めて実感できました。
墓地には観世流の音阿弥と南近江の武将、佐々木承禎のお墓があります。
観世流は、室町時代に生まれた能楽の流派の一つ。
能楽の発展に大きく貢献した観世流の音阿弥、元章、そして清興のお墓です。
佐々木承禎は戦国時代の南近江の武将で観音寺城主でした。
上洛を目指す織田信長の侵攻を受けて、観音寺城を退去し流浪の身となりました。
前回のブログでも触れましたが、武田信玄の菩提寺として知られる恵林寺が、織田信長によって全山焼き討ちされた理由は、
実は佐々木承禎をかくまったことにあったと言われています。
佐々木承禎をかくまい、逃がしたことで、織田軍の怒りを買い、恵林寺は悲劇に見舞われました。
まさかこの出来事が、後の歴史と深くつながっていたとは…
驚きとともに改めて歴史の複雑さと運命の不思議さを感じさせられます。
茶人寸松庵禅師の墓
子供の頃、一休さんのアニメを夢中で見ていました。
彼の機転の利いたとんちは、子供心にも「すごいな」と感心させられるものでした。
『あわてないあわてない、一休み一休み』
これは子供の頃、アニメの中でよく耳にした一休さんのフレーズ。
忙しい毎日や焦る場面で、この言葉を思い出すと、自然と心が落ち着いてきます。
一休さんの言葉は、私たちの日常にも深く響くものがありますね。
時には立ち止まり、深呼吸をして心と体をリフレッシュさせることの大切さを優しく教えてくれているようです。
アニメの中の一休さんは、単なるおちゃめなキャラクターではなく、人生の本質や人間の心の奥深さを
教えてくれる存在だったんですね。
子供の頃の楽しい記憶とともに、一休さんの教えを胸に、日々の暮らしに少しのユーモアと知恵を取り入れていきたいと思います。