経理部の松田です。
昨年末、また奈良を訪れる機会に恵まれました。
昨年の年明けに訪れた際に、改めて奈良の歴史と自然の美しさに魅了され、年末にも再び足を運びました。
今回は、前回訪れていなかったスポットを中心に、奈良の奥深さを満喫してきました。
そのひとつが、大和郡山城です。
今年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の舞台の一つとしても注目されている奈良県郡山市にある歴史的な城跡です。
お城の入口には大和郡山城と追手門についての詳しい歴史案内文が長々と書かれていたので、
興味深く読ませていただきました。
最初に郡山城を築いたのは、戦国時代の名武将・筒井順慶です。
昨年の年明けに奈良を訪れた際、彼の菩提寺である伝香寺にも足を運んできました。
あの時の様子や境内の様子については、私のブログ(古都奈良の世界遺産巡り後編)をご覧いただければと思います。
筒井順慶は織田信長の後援によって大和統一の偉業を成し遂げ、築城に着手しました。
その後、大和・和泉・紀伊100万石の太守として豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が入城し、豊臣政権の畿内統治の拠点として
本格的な築城が行われました。
そのとき追手門もこの場所に築かれたようです。
しかし、関ケ原の戦いで西軍は敗北。徳川家康によって郡山城は取り壊され、建物のすべては伏見城へ移されました。
大阪の陣後に水野勝成が城主となってから復興整備が始まり、以降は松平、本多、柳澤といった譜代大名が城主を務め
再整備が行われましたが、明治維新を迎えて廃城となり、建物はすべて取り払われてしまいました。
こちらが追手門。
昭和58年に市民の寄付などにより追手門、追手向櫓などが秀長築城にふさわしい姿で復元されました。
追手門には、豊臣家の家紋が刻まれ、豊臣家の威光と栄華を感じます。
城の入口にふさわしい、壮麗で堂々とした存在感があります。
こちらは追手向櫓。
現在、郡山城跡は公園として整備され、令和4年に国史跡に指定されました。
古くから桜の名所としても知られ、「日本さくら名所100選」に選ばれています。
追手門をくぐって右へ向かうと、城址会館があります。
この建物は明治40年に興福寺境内に建てられた旧奈良県立図書館です。昭和45年にこの場所に移築されました。
訪れた日は年末の為、休館となっていました。
追手東隅櫓からは近鉄橿原線を走る電車を見ることができます。
極楽橋を渡って本丸へ。
内堀に架かる極楽橋は、発掘調査の結果、何度も建て替えられてきたことが明らかになったそうです。
築城から400年以上が経過し、歴史の重みを感じさせる城跡。
郡山城の石垣には転用石材も多く使われています。
城跡の持つ静謐な雰囲気は、過去の激動の時代を生き抜いた武士たちの息吹が感じられ、心が落ち着きます。
天守台から望む景色は絶景でした。
遠くに広がる大和郡山の街並みや若草山、歴史と文化の薫る薬師寺、そして修復中の興福寺五重塔までも見ることができ、
戦国時代に思いを馳せながら静かな時間を過ごしました。
大和郡山城には天守閣が復興されることはありませんでしたが、私はむしろその殺伐とした風景に惹かれます。
松尾芭蕉の俳句「夏草や兵どもが夢の跡」の情景が頭に浮かび、戦の名残と時の流れを静かに物語っているように感じます。
天守閣の華やかさではなく、そこに漂う歴史の重みや哀愁を感じさせる風景に、私は深い魅力を感じています。
本丸には柳澤神社があります。
神社の祭神は江戸幕府5代将軍 徳川綱吉の側用人として活躍し、政治の中枢を担った柳沢吉保です。
甲斐国生まれの柳沢吉保は、後に川越城主を経て甲府城主となりますが、
2代柳沢吉里の時に、柳沢家は幕府より甲府から郡山への転封を命じられて郡山城に入りました。
吉里以後、6代にわたって柳沢家が明治維新まで大和郡山藩主を務めました。
柳沢家の菩提寺である永慶寺にも行ってきました。郡山城から徒歩数分の場所にあります。
永慶寺は柳沢吉保が甲府に建立したお寺であり、長男の柳沢吉里が郡山藩に移封されると、同じく郡山に移転しました。
山門は郡山城の南御門を移築したものです。豊臣秀長時代に建てられたものだそうです。
墓地の中央に柳沢家の墓所がありました。
6代藩主柳沢保申の墓
6代藩主柳沢保申の正室明子の遺髪碑と5代藩主柳沢保興の正室淑姫の墓
柳沢宗家8代当主柳沢保恵の墓
とりあえず写真を撮ってきました。
長い歴史の中で幾度も変わりゆく姿を見せてきた大和郡山城。
城跡を歩きながら、歴史の流れや当時の権力者たちの思惑を想像すると、ますますこの場所の深みを感じました。

























